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ぼびーのつぶやき

「どもっても大丈夫」について考える

2017年06月17日


 貴戸理恵先生の「『学級不適応でも大丈夫』と言い続けるために」(児童心理70号4巻, 2016年, 147〜151ページ)を読みました。

 

 貴戸先生は、お子さん時代に不登校だった経験があり、その後不登校についての研究をされ、現在は大学で社会学を教えていらっしゃいます。この論文は、「不登校経験者」かつ「不登校研究者」の貴戸先生のお嬢様が不登校になられた経験を元に、「不登校の子どもを持つ母親」として感じたことや取った行動を振り返ると共に、「学校不適応でも大丈夫」という主張について論考されています。
 
 貴戸先生は、お嬢様の不登校について考えることについて以下のように述べられています。

 
 学校に行かない自分の子どもについて考えることは、「自分の不登校」や「不登校という現象一般」を考えることとはかなり違った。「学校不適応でも大丈夫」。自分のことであればそう思う。一般論としてもいえる。けれども、学校に行かず「ストレス性の胃炎」を起こしている娘を前にして、その言葉で納得すること難しかった。...(略)

 もっとベーシックな、日常に埋め込まれたところで、私は普通におろおろした。どうして行きたくないんだろう。何か嫌なことがあったのかな。...(148ページ)
 

 そして、貴戸先生は、お嬢様の不登校を体験され、「学校不適応でも大丈夫」という主張について以下のように論考されています。
 

 娘が学校に行かなくなって、親として感じたのは、「学校不適応でも大丈夫」と言うためには、周囲の大人にもそれなりの覚悟とかんばりが必要ということだ。...(略)
 
 「学校不適応でも大丈夫」というのは、「本当にそうか」と真偽を判断できるようなものではなく、「何が何でも大丈夫にしていく」という周囲の大人達の決意表明だったのではないかということだ。

 その意味で、「学校不適応でも大丈夫」という主張には、大人たちの「大丈夫であってほしい」という祈りと、「大丈夫な環境を作っていく」という努力が込められている。そして、それは深いところで「親にできることは限られている」という非力の認識と、子どもの自身がもつ問題に立ち向かう力への信頼につながっているように思う。...(150〜151ページ)
 

 吃音のある人の支援では、しばしば「どもっても大丈夫」ということが言われます。私は、一吃音当事者として、「どもっても大丈夫」と心から感じています。しかし、その一方で、教育臨床相談で出会う吃音のある方や保護者の方に「どもっても大丈夫」と言うことに躊躇する自分がいるのも事実です。
 
 「『どもっても大丈夫』と心から感じているのに、他の吃音のある方や保護者の方に言うのをためらうのは何故か」、私はその理由が自分自身分からず、悶々としていました。しかし、貴戸先生の論文を読み、その理由が分かりました。以下に、それを述べたいと思います。
 
 私は、幼少の頃から「どもっても大丈夫」と思っていたわけではありません。吃音で級友に真似され嫌な気持ちになったり、新学期の自己紹介で自分の名前が言えるか何日も前から心配したり、「朝起きたら、吃音がなくなってるといいな」と毎晩寝る前に思ったりと、吃音がある自分が嫌で、吃音を否定的に捉えていました。それが、どもりつつも、毎日の生活(大きなライブイベントを含む)を何とか乗り切っていく中で、少しずつ「どもっても何とかなる」、「大丈夫」という確信が持てるようになったのです。
 
 また、私は、周囲の方にも、恵まれました。もちろん、中には、私の吃音の話し方をからかう人や、吃音で話す私の話を迷惑がり途中で聞くのを止めてしまうような人もいました。しかし、私がこれまで出会った大多数の人は、吃音でたどだどしい私の話を最後まで聞いてくださったり、吃音があり上手く話せない私を信頼し様々な仕事や役割を任せて下さったりしました。そして、周りの方にこのように対応していただく中で、「どもっても認めてもらえる」、「大丈夫」と思えるようになったのです。
 
 このようにも、私は、自分自身のこれまで吃音と向かい合った体験や、周りの人の支えで、自分自身の吃音については「どもっても大丈夫」と強い確信を持てるようになりました。しかし、教育相談で出会う吃音のある方の中には、様々な方がいます。吃音の言語症状の重症度や吃音の心理的な問題の状態も一人一人違いますし、それぞれの方の性格や得手不得手、取り巻く環境も様々です。例えば、吃音の言語症状や心理的な問題が私よりも重い方もいらっしゃれば、軽い方もいらっしゃるでしょう。また、私は幸いにも周囲の方に恵まれましたが、周囲の方に恵まれないという方もいらっしゃると思います。このため、当然なのですが、私と全く同じ吃音の体験をされる方は一人もいらっしゃらないわけで、そうだとすると私の個人的な吃音の体験から得られた「どもっても大丈夫」を他の吃音のある方にあてはめてよいのか(貴戸先生の論文の言葉を借りると、「『本当にそうか』と真偽を判断できるのか」)という思いが私を躊躇させるのだと分かったのです。
 
 ところで、貴戸先生は、「学校不適応でも大丈夫」は、真偽を判断できるようなものではなく、「何が何でも大丈夫にしていく」という周囲の大人達の決意表明であり、「大丈夫であってほしい」という祈りと「大丈夫な環境を作っていく」という努力が込められていると述べられています。私は、吃音のある方や保護者の方に「どもっても大丈夫」と言う際にも同じことが言えるのではないかと思います。つまり、「どもっても大丈夫」と吃音のある方や保護者の方に言うとは、「何が何でも大丈夫にしていく」という臨床家の決意表明であり、「どもっても大丈夫」と言うからには、それが真実となるよう、最大限の努力をしなくてはいけないということなのだと思うのです。この努力は、社会全般への吃音の啓発というマクロなものは勿論、吃音のある人の家族や学校、職場への働きかけといったミクロなものも必要だと思います。また、吃音の人自身がもつ問題に立ち向かう力を信頼し、発揮できるよう働きかけることも臨床家には求められるでしょう。
 
 吃音のある方や保護者の方に「どもっても大丈夫」と自信を持って言うことができるよう、努力を続けたいと思います。

 


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